2008年01月03日

昔と今13

今回は旧小川(こがわ)町周辺
大正9年ごろの古地図

※複数枚の地図を必要に応じて接合しているので若干縮尺があっていなかったりして見ずらいかもしれませんがご了承くださいm(_ _)m。

現在
posted by さすらいの朴念仁 at 03:00 | 地元ネタ>記録 | *

2007年12月26日

昔と今12

2007/12/27 0:05 またまた編集しましたm(_ _)m
※大正時代の古地図(番地入り)が手に入り若干撮影ポイントに誤りがあったようなので訂正のため編集しました。
古地図


現在

古地図と現在の地図を見比べると昔の線路はもう少し川よりにあったようで昔の線路左側の青線部の町の大部分が道路拡張によりなくなっているのがわかると思います。
※ここより市役所よりのほうがもっと変化しています。

駅前
大正8年ごろ

画像右側手前に見えているのが築町〜病院(大学病院)下の線路か?

長崎駅前から桜町まで路線が通ってからの駅前交差点

上記2枚は「続・アルバム長崎百年:発行長崎文献社」より転載
画像中央左側の木造三階建ての屋根の後に見えている尖塔が中町教会です。
※多分この写真は駅舎2階からの撮影だと思う
撮影ポイントは古地図の赤字1と予想

現在の交差点

撮影ポイントは現在の地図黒字1
現在はビルがあるため中町教会はこの角度からは見えませんが歩道橋を大黒町側に渡り市役所方面へ向かって行く↓と若干見えてきます。


雑記を追加
江戸時代この辺にいくつかの藩の蔵所があったそうです。
現在の画像中央の電柱のある辺りに熊本細川藩蔵屋敷跡、そこから右斜め下方向に自動車が二台止まってますがここらあたりからホテルニュー長崎の辺りまでに佐賀鍋島藩蔵屋敷跡、で画像右上に裏側に国民金融公庫があるのですがここは平戸松浦藩蔵屋敷跡、そして過去に紹介した長崎中央郵便局のある辺り(この記事の現在画像2枚目を撮影ポイント)に島原松平藩蔵屋敷跡、先ほどの佐賀鍋島藩蔵屋敷跡から五島町方面に五島町公園横の県漁連付近が柳川立花藩蔵屋敷跡、西部ガス駐車場辺りが福岡黒田藩屋敷跡、中村倉庫ビル(北側)は佐賀藩支藩鹿島藩蔵屋敷跡で同倉庫南側は深堀家屋敷跡だったそうです。
posted by さすらいの朴念仁 at 01:00 | 地元ネタ>記録 | *

2007年12月20日

昔と今11

長崎駅
大正10元年10月に完成した洋風駅舎


駅についてはココここでも見てくれたまえw

長崎駅
国鉄長崎本線(※1)の終着駅。
一九〇五年(明治三八)四月五日九州鉄道鰍フ長崎駅は仮駅舎で開業。
このため従来の長崎駅は浦上駅に改称。
一九〇七年七月、九州鉄道を国鉄が買収して国鉄長崎駅となる。
一九一二年(大正元)一〇月木造二階建ての本駅舎完成。
翌年一一月初めて長崎−門司間に急行列車運行。
一九四五年(昭和二〇)原子爆弾によって焼失、その後仮駅舎で営業。
現駅舎(※2)は一九四九年三月落成した。
一九六九年六月駅前高架広場が完工、同年駅舎も改築落成した。
「長崎県大百科事典:長崎新聞社発行」より
※1:現在はJR九州長崎本線
※2:2代目駅舎(現在は3代目新幹線計画のため仮設駅舎)

長崎港駅
大正12年(1923)から日華連絡船が出島岸壁に係留されるようになりますが、出島岸壁と国鉄長崎駅の利便性が悪く昭和5年(1930)長崎駅から出島岸壁までの約1キロメートルに臨港鉄道(引込み線)をひき、あわせて駅を設け長崎港駅が開業します。これで国鉄から日華連絡線へ利便性が向上し東京-長崎-上海という路線は所要時間54時間25分。年間10万人以上の人を運びます。しかし昭和17年(1942)の日華連絡船の沈没で駅は廃されますが、昭和24年(1949)松ヶ枝橋まで臨港線を692メートル延長し元船-常盤倉庫群の輸送路に当てられます。しかし次第に鉄道はトラックなどに押され昭和57年(1982)長崎港駅とともに臨港鉄道は廃止(撤去)され遊歩道など変わります。なお、長崎港駅の位置は現在の長崎税関の裏手にあたり、臨港鉄道の史跡として旧国鉄松浦線などで活躍した機関車の動輪が大波止橋横に置かれています。
posted by さすらいの朴念仁 at 22:34 | 地元ネタ>記録 | *

2007年12月19日

昔と今10

昔と今の追加

1828年ごろ

「長崎出島ルネサンス・復原オランダ商館:発行戒光祥」より転載
※この画像の元はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの書いた「ニッポン」という本に描かれていた挿絵です。

明治中期ごろの長崎


被爆後

「アルバム・長崎百年:発行長崎文献社」より転載

現在


現在2(被爆後に近い感じ)
posted by さすらいの朴念仁 at 17:48 | 地元ネタ>記録 | *

2007年12月10日

古写真・鹿児島編

今回利用させていただいてる古写真は
「明治七年の古写真集:長崎文献社発行」
より転載したものです

西田橋1


西田橋2


西田橋3
posted by さすらいの朴念仁 at 17:35 | 地元ネタ>記録 | *

昔と今9

大浦天主堂
創建当初(慶応年間)

創建当時は3つの尖塔があったのが明治元年ごろ失われ明治11〜12年ごろの増改築で正面意匠が失われ↓のように変化し

明治中ごろ

※上記2枚の画像は「長崎古写真集:長崎市教育委員会発行」より転載

現在に至る
posted by さすらいの朴念仁 at 02:30 | 地元ネタ>記録 | *

2007年12月06日

浦上天主堂3

被爆前の浦上天主堂

撮影時期不明

被爆後


※上記2枚の画像は「アルバム・長崎百年:長崎文献社発行」より転載したものです。

現在1現在2

※考えてみたらキリスト教の人(米国)が同じキリスト教の人(浦上周辺の信者や捕虜として浦上刑務所に囚われの身になっていた人たち)の頭上に原子爆弾を落とした事実は案外知られていないみたい・・・。
posted by さすらいの朴念仁 at 01:37 | 地元ネタ>記録 | *

2007年11月19日

位置関係


1.浦上天主堂
2.原爆落下中心地公園
3.長崎原爆資料館(隣の煉瓦調の建物は長崎市平和会館(中に長崎市歴史民俗資料館と長崎市野口弥太郎記念美術館があります。))
4.平和公園
5.あえて場所が解るようにしてませんが画像のどこかに十字架山が写ってます。
※十字架山の場所を解るようにしていないのは周辺の信者の方々の心情を考えてのことなので質問されても答えられません。
posted by さすらいの朴念仁 at 14:52 | 地元ネタ>記録 | *

2007年11月06日

昔と今8

大浦が居留地時代の頃たくさんの洋館や赤レンガの倉庫がいくつも建っていたそうです。


※昭和31年3月4日に撮影された写真です。
この倉庫もその1つで昭和61年に解体されました。
昭和61年というとおいらが中学生のころなのですがこの頃から大浦全体としてビルが建ち始めたと記憶しています。
場所はオランダ通りの弁天橋手前です。

現在


で、ここから徒歩で5分ぐらいのところに同時代に建てられた倉庫が残っているのでそれもあわせてうpします。


※この記事に利用している古写真は長崎新聞社発行の「長崎昭和レトロ写真館(写真は古字)」(写真撮影者:堺屋修一氏)から転載させていただいたものです。
posted by さすらいの朴念仁 at 23:52 | 地元ネタ>記録 | *

昔と今7

今回はオランダ坂周辺

※昭和30年5月15日に撮影された写真です。
オヤジたちの時代は写真のようにリヤカーを押すのを手伝ったりして駄賃や食べ物をもらったりしてたらしい

現在

変わってないのは石畳の坂とタバコ屋の建物とその後に見える洋館群のみ
※撮影ポイントは現在の右側に見えるビル(公民館)の前あたり
posted by さすらいの朴念仁 at 23:26 | 地元ネタ>記録 | *

昔と今6

その昔、長崎には丸山遊郭がありました。

写真は丸山遊郭の入り口であった山の口の二重門です。

現在

現在は二重門も取り壊され昔の名残として残っているのは
見返り柳と思切橋跡


071105_mi002.jpg 071105_mi003.jpg



ここの反対側に福砂屋が在ります。


料亭花月


071105_ka003.jpg 071105_ka004.jpg



長崎地番




料亭青柳



この階段脇に↓が在ります。




等の建物や丸山オランダ坂やいくつかの神社等を残すのみで現在は飲み屋街としてその姿をかえています。

※この記事に利用している古写真は長崎新聞社発行の「長崎昭和レトロ写真館(写真は古字)」(写真撮影者:堺屋修一氏)から転載させていただいたものです。
posted by さすらいの朴念仁 at 00:51 | 地元ネタ>記録 | *

2007年11月05日

昔と今5

昨日の続きでもあり旧長崎英国領事館の続きでもあり?

この写真の左上に写っているのが旧スチイル記念学校だと思われます。

で、現在地は・・・海星高校の敷地内だから・・・で、現在グラバー園内に移築されている建物をうpしまつ。


071105_su002.jpg
説明文のアップ




071105_su004.jpg 071105_su005.jpg


旧オルト邸の前庭越



※この記事に利用している古写真は長崎新聞社発行の「長崎昭和レトロ写真館(写真は古字)」(写真撮影者:堺屋修一氏)から転載させていただいたものです。
posted by さすらいの朴念仁 at 23:41 | 地元ネタ>記録 | *

2007年11月04日

昔と今4

今回の撮影場所はロケ地巡り(精霊流し編)ででてきた東山手地球館のある東山手の洋館群とその周辺です。


画像左に二階建てのベランダのある洋館が写ってますが、コレが現在の東山手地球館だと思われます。

現在



残念ながら子供たちがうっかかっている(方言?)塀と建物は現在有りません
posted by さすらいの朴念仁 at 23:40 | 地元ネタ>記録 | *

昔と今3

昭和30年代の写真集が手に入ったので解る範囲で昔と今を比べてみる

まずは中町教会周辺

撮影場所は二十六聖人殉教の地の前の広場で撮影された日時は昭和35年の2月5日で「日本二十六聖人殉教記念ミサの行列」を撮影したものだそうです。

で↓が現在

ほとんどビルに囲まれてしまい教会は尖がり屋根の塔しか視認できず古い写真の方では確認できる背後の山や手前に写っている道路もほとんど見えない状態です。

教会のアップ


つぎは中町通りからの眺め
昭和33年4月29日


現在

教会以外はほとんど面影無しですね。

※この記事に利用している古写真は長崎新聞社発行の「長崎昭和レトロ写真館(写真は古字)」(写真撮影者:堺屋修一氏)から転載させていただいたものです。
posted by さすらいの朴念仁 at 03:00 | 地元ネタ>記録 | *

2007年11月01日

二十六聖人殉教の地3

大浦天主堂の裏手の道から殉教地が見えるポイントがあったので追加

撮影場所は南山手の南山手レストハウス(大浦展望所そばで、グラバースカイロードから登ってきたら出口右側)の入り口前の横道です。

で、中間に撮影できる場所がないか探したら↓

中間よりやや大浦天主堂よりに長崎県美術館があり、ここは屋上に庭園があるのでここからも撮影してみた
※本来は地図上では美術館の二棟を繋ぐ渡り廊下上部やや西側あたりが天主堂と殉教地を結ぶライン上になるのですが、ここからはあるホテルが邪魔して見えないので、若干(十数Mほど)西よりの美術館の西側(水辺の森公園側)の棟の上で撮影しました。

で↓が殉教地側1
071101_26003.jpg 071101_26004.jpg

で↓がアップ


次、どこまで見れるか若干東側に移動して撮影
071101_26006.jpg 071101_26007.jpg

で↓がアップ

※画像見るとどこのホテルが邪魔してるか解るでしょ?

で↓が天主堂側
071101_26009.jpg
上記画像に不適切な物が写ってるのでボカシをかけてます。

で↓がアップ

1.が一番最初の画像の撮影場所です。
大浦天主堂は本来のライン上からもしっかり見えてました。

↓が地図
071101_26011.jpg
地図上3.は大浦天主堂、4.は二十六聖人殉教地、5.は長崎県美術館、6.はほにゃならホテルのあるとこ

コレが本来のライン上から見た殉教地側

手前に見えてる海岸沿いが出島ワーフで、右側のビル群の向こう側に出島があります。
posted by さすらいの朴念仁 at 21:27 | 地元ネタ>記録 | *

2007年10月29日

二十六聖人殉教の地2

大浦天主堂から見た二十六聖人殉教の地が判ったので記録

↑を見ると真正面にはなってないみたいですね。

で、アップ1


アップ2

※見えているのはレリーフの後にある日本26聖人記念館(資料館)です。
↑2枚を見てもらうと判りますがビルに囲まれてしまい両建造物からは見えなくなってしまってます。



で、この殉教の地にはもう1つの歴史があります。
それは何かって言うと「ポンペの人体解剖実習が行われた場所でもある。」という事です。

ポンペの人体解剖実習
安政6年(1859年)8月13日から3日間にわたって行われた。解剖実習は臨時に建てられた小屋に斬罪に処せられた無宿平三郎の屍体が運ばれ行われたが、尊皇攘夷運動の激しかった当時のこと、150人もの役人が警備するという物物しさであった。この解剖実習には松本良順以下、医学伝習所の伝習生が見学したが、その中には当時33歳の楠本イネ(1827〜1903)も含まれた。

長崎の史跡(北部編) 編集・発行:長崎市立博物館 より

ポンペ・ファン・メールデルフォールト
一八二九〜一九〇八(文政一二〜明治四一)。
オランダの海軍軍医。ブルッへ生まれ。一八四九年(嘉永二)ユトレヒト陸軍医学学校卒業。東インドの各地で勤務し、一八五六年(安政三)長崎における第二次海軍伝習教育派遣隊の一員として、一八五七年隊長カッテンディケに従って来日。松本良順以下多くの医学生を教育、一八五九年カッテンディケ帰国後も医学の伝習を続行、ポンペ帰国までの五年間に直接教えを受けた者一三三人であった。彼らは細菌学の新医方、各科の実験臨床をポンペに学ぶことができ、後日名医といわれる地位を得る素養を身につけつつあった。彼は系統立った人体解剖の実習、病人の診療にも当たった。五年間に診療した患者は一万四、五三〇人といわれる。また、一八五九年流行のコレラ防疫を行ったり、一八六一年(文久元)に幕府に建議して洋式病院養生所を設置させた。一八六二年オランダ船ヤコブ・エン・アンナ号で帰国。のちにオランダに留学した榎本武揚(たけあき)、赤松則良の世話をしたり、一八七五〜一八七七年(明治八〜一〇)駐ロシア日本公使・榎本武揚の顧問としてペテルブルグに随行した。日本政府からはその功により勲四等を贈られた。松本良順、佐藤尚中、長与專斉ほか明治医学界の巨匠は多く彼の流れをくんでいる。
「長崎県大百科事典:長崎新聞社発行」より
posted by さすらいの朴念仁 at 01:28 | 地元ネタ>記録 | *

2007年10月23日

昔と今2

ちょこっと前のエントリで長崎は埋立地だらけってことを書いたけどどれだけ埋立地が多いかってことを年代別の地図を使ってみてみる
まずは江戸時代後期ごろの出島周辺の地図

@のところが現在の大波止や夢彩都がある辺りになり右側が県庁のある丘です。
※出島の右斜め下にある埋立地は現在の新地あたりだと思われます。

次の地図は明治27年ごろです。
nmap001.png
すでに出島が島ではなくなってますね。
Aは大浦川河口です。
大浦川沿いや北側(平地)が大浦居留地地区で右側に東山手地区下側に南山手地区や波の平等になり松ヶ枝は河口南側のところです。
Bここが現在の活水がある辺りですが昔はこの丘の下は海だったといわれているので西側の平地は埋立地でありこの海岸線が大浦海岸といわれている所です。

次は大正12年ごろの地図です。

このころになると出島周辺の埋立てや新地周辺の埋立てられてる分部が増えてるのが解ります。
地図の上部に長崎駅がありますが昔は現在の浦上駅の辺りにあったそうです。
赤線はちんちん電車の線路です。

次は昭和7年ごろの地図です。

出島や新地周辺の埋立地の変化はありませんが線路が出島の埋立地まで伸びているのが解ります。

で次の地図は昭和のいつごろか解りませんが、おおよその埋立地が解るので参考のために載せて置きます。

画像の黒い部分が埋立地です。
※おいらが子供のころがこんな感じで親父たちの子供の頃は大浦海岸まで線路が伸びていていましたがおいらが子供の頃はすでに廃線になってました。
※この海岸通りに米とかの倉庫があったのを記憶してますが昔は汽車とかで運んで来ていたそうです。

最後に現在の地図

・・・おいらが変わったと言った意味が解るでしょ?

駅周辺の埋立地がわかる図を追記

上図左が幕末で右が江戸中期


現在の長崎市浜口町という町名が爆心地近くに残っていますが、何ゆえ浜口町といわれたのか上図を見るとよくわかりますね。
posted by さすらいの朴念仁 at 00:38 | 地元ネタ>記録 | *

2007年10月08日

昔と今

その昔長崎港はその形から鶴の港と呼ばれていたそうです。が、おいらが子供のときはすでにいろんなところが埋め立てられた後で今現在は鶴の形にすら見えないです・・・orz

現在の長崎港1


現在の長崎港2

1.大浦天主堂周辺
2.松ヶ枝埠頭 松ヶ枝から左側奥が大浦地区
3.水辺の森公園
4.この下辺りが出島だと思いまつがビルだらけで判別不能・・・orz
5.夢彩都 いまおくんちがあってるのでこのビルの裏側にお旅所が在りますが、昔はこの夢彩都が建っている場所がお旅所で県庁坂から下ってきて真正面の位置していて賽銭箱にお賽銭を入れたいのですが人だらけのため賽銭箱の近くまでいけず数十メートル手前から投げ入れるって感じてよく"賽銭箱の手前でポケット広げて立ってればいっときのあいだこずかいに事欠かないだぞ"って冗談を友達としていたのを思い出します(実際にはやった事ないけど結構小銭が・・・以下秘密

昔の長崎港
※現在の長崎港2と同じ角度です。

パノラマ1(風頭)

パノラマ2(立山)

現在の風頭からのパノラマ

1.鍋冠山
2.女神大橋と香焼方面
3.天門峰(鰯見岳)
4.大波止・県庁・出島等
5.稲佐山
6.岩屋山
7.立山
8.金比羅山
※この4つ(5.6.7.8)の山の谷間が爆心地になります。
※この山々があったお陰で広島に落とされたものより威力のあった原子爆弾を落とされても広島程の被害や死者・負傷者が出なかったといわれています。
9.帆場岳(三ツ山)
10.烽火山 この山の左側が健山で写ってませんが右側に武功山です。
※この山と帆場岳の間や周辺がその昔長崎の玄関口で四ツ峠(現川峠・木場峠・中尾峠・日見峠)と呼ばれていた峠があります。
11.諏訪神社
12.西山方面
posted by さすらいの朴念仁 at 20:42 | 地元ネタ>記録 | *

2007年09月21日

針尾無線塔


撮影場所は無線塔手前の橋

「新高山登れ一二〇八」の暗号電文を送信した事でありある種、歴史的にみて重要な建造物だと思う針尾無線塔のある場所は佐世保市針尾中町で国道202号から長崎からだとパールライン針尾IC手前の三叉路(西海側の角にリサイクルショップ有り)を左折し車でおよそ10分くらいのところにあります。

が、今回は時間がなかったので長崎自動車道を利用し東彼杵ICでおり国道205号から途中ハウステンボスを経由して国道202号を下る行程で無線塔に行きました。

東彼杵ICからハウステンボスまでの中間ぐらいの位置の彼杵港から見た針尾無線塔
18mmで撮影


アップ(250mm使用)


ついでに琴ノ尾岳(向かって左)と西彼杵(西彼)の山
070920_ha004.jpg 070920_ha005.jpg

大村市今村町の日岳展望所から見た無線塔


アップ(300mm使用)
posted by さすらいの朴念仁 at 01:46 | 地元ネタ>記録 | *
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