
場所は長崎大学医学部正門脇
11時2分のモニュメント
毎日、原爆が投下された時刻の11時2分に「ふるさとの町焼かれ…」で始まる「原爆許すまじ」のメロディが流れます
「長崎さるくマップブック:長崎国際観光コンベンション協会発行」より

11時2分のモニュメント
毎日、原爆が投下された時刻の11時2分に「ふるさとの町焼かれ…」で始まる「原爆許すまじ」のメロディが流れます


架設年代:1673年(寛文13年)→1795年(寛政7年)流失→1800(寛永12年)
架設者:1673年・不明 1800年・官命
石工1673年・不明 1800年彦兵衛・吉次郎・清兵衛・弥三・八十八
長さ:16.1m
スパン:16.0m
拱矢:4.25m
拱矢比:3.6
巾員:4.55m
特徴
架けた人は不明だあるが、この七年前には賑橋(※1)を「何高才」が架け、又六年後には常磐橋(※1)を「魏爾潜」が架けているのでこの橋も中国人の仲間によるものでなかろうか。
寛文十三年(一六七三)に竣功しているが、寛政七年(一七九五)の大洪水で流されてしまった。親柱の碑文には「寛政七年乙卯七月十九日旧橋落、於是十二年痍申九月再造」と記してある。
即ち、五年後の寛政十二年(一八〇〇)に再建されたこの橋が現在残っている東新橋である(※2)。

○脇岬のビーチロック
ビーチロックは海浜の小石(礫)や砂が石灰質により凝結してできた一種の海浜堆積岩で,通常は砂浜と海水の間にあり,満潮時は海水に没していて,干潮時に露出する。脇岬棚瀬では5 5 程度の礫が灰黄土色の石灰質泥で固められた岩石となっており,厚さ1030 の層が幾重にも重なって形成され,園山の付け根で扇形に広がっている。干潮時に露出した所で長辺約240 ,短辺約100 で,面積約24,000 という大規模なものである。一般的にビーチロックは,熱帯の南洋諸島や北アメリカ海岸,カリブ海岸などに見られ,我が国では,沖縄のような珊瑚礁の発達する熱帯亜熱帯の海浜での存在が報告されている。脇岬のものは九州本土では北限であり,非珊瑚礁地域でこれ程大規模に発達したビーチロックは極めて珍しく,離島を除いた本土地域では最大規模と思われる。


架設年代:1634年(寛永11年)→1647年(天保4年)雨により大損→1648年(慶安元年)重修
架設者:僧如定
石工:1634年・不明 1648年・平戸好夢
長さ:23.0m
スパン:8.3m
拱矢:4.2m
拱矢比:2.0
巾員:4.68m
○眼鏡橋
寛永11年(1634)興福寺の二代目住職・黙子如定禅師が架設。我が国最古のアーチ型石橋。中島川は海に近いので満潮時は水深が増す。そんな時に水面にアーチが映り、2つの円ができることからこう(※1眼鏡橋と)呼ばれた。昭和57年(1982)の長崎大水害で半壊し、修理した折、それまで隠されてた階段部分が露出し、以降は階段付きに。くんちの龍踊りがこの橋の上でとぐろを巻く様は、まさに圧巻。


架設年代:不明※1648年〜1657年(慶安〜明暦)頃
架 設 者:不明
石 工:不明
長 さ:19.4m
ス パ ン:17.0m
拱 矢:4.25m
拱 矢 比:4.0
巾 員:4.40m
特徴
眼鏡橋の下流に掛けているが、眼鏡橋と同じように擬宝珠をつけ、勾欄も立派にな作りを持った優雅な姿を昔のまま残している。
石橋架橋年代がこの橋だけわからない。しかし橋の石組を詳しく調べてみたら、寛永-承応年間に架けられた眼鏡橋や高麗橋、一ノ瀬橋によく似ている事がわかった。
また長崎図法の序文に「乙朱仲冬長至日・・」と記してあることから、明暦元年(一六五五)に架けたのではないかと考えられる。
中島川石橋群中、最大の径間を誇っており(十七メートル)、技術的に大変貴重な橋である。

○神ノ島教会
多くのキリシタンが隠れ住んでいた神ノ島に、初代司祭ブレルがきた1876年ころに仮教会ができ、1881年2台目司祭ラゲによって美しい木造教会が建てられた。しかし、白蟻の被害がはげしく、1897年、6代目(司祭)デュランによって煉瓦造教会に建てかわり、現在の教会の土台ができた。信徒の拠出にデュランは私財を投げうって援助し、設計案も描いた。
胃を痛め山羊の乳しか飲んでなかったというデュランの生活は、つぎはぎだらけのスータンを着て清貧そのもの。教会には、デュランに対する信徒の感謝の気持ちもしみこんでいる。
教会が建て替えられたとき、木造教会の古材を使って学校がつくられた。